今年は河鍋暁斎の展覧会が目白押しとなる、暁斎イヤーです。初詣客もひと段落した成田山に暁斎を訪ねました。表参道には古い家並みが連なり、庶民信仰の長い歴史を感じさせてくれます。
霊光館では、成田山に納められた暁斎の絵馬「大森彦七鬼女と争うの図」とともに、本画の優品がずらっと展示された「天才絵師 河鍋暁斎」展(2月11日まで)が開催されています。この絵馬は門外不出とも言える作品で、師匠の国芳の絵馬とともに絵馬堂に掲げられていた当時を想像するには、やはり寺の境内が最適といえましょう。対角線上に張り詰めた構図の緊張感のなかで、右下に太々としたためられた揮毫は他の作品にみらない、霊気といった独特の精神性を感じさせます。書画会から展覧会と変じた美術作品の生産システムとは、全く異なる次元の創造として絵馬を再認識できる傑作です。
そこから数百メートルのところにある書道美術館でも関連企画「酔うて候 河鍋暁斎と幕末明治の書画会」が開催中です。近代日本で最も大きなカリカチュア作品といえる新富座の引幕を一挙に展示して、舞台を見上げる視線が得られるように緋毛氈に座って鑑賞できる工夫がなされています。見上げると、いまにも飛び出してきそうな妖怪たちの迫力に改めて驚かされ、また幕の隅々に暁斎の身体的な痕跡の数々を発見することができます。

明治二二年暁斎の訃報に接したとき、依田学海は五月六日の日記に「狂斎死す」と題してその思い出を記しています。「(略)余この男を金港堂の別荘にて始て知りにき。画の力は実に抜郡(ママ)のものなり。酔はざれば極めて気力なし。狂酔すれば何ものを問はずして筆をとりて皆画を作る。人家に至りて酒をのむときはあたりにありあふ紙にもあれ障子屏風にもあれ尽くこれに画く。これを止むれどもきかず。されども壱人老母に考を尽し老母一声叱すれば今まで大酔狂せしも忽ち恐れ服すとぞ。また奇人といふべし。」(学海日録)
書画という熟語の構成は書が上で、画が下。社会的なヒエラルキーをも反映して、画賛を加える立場の書家=文化人たちは維新後の文化政策の立案者になることのできる立場にありました。なかでも演劇改良運動の先鋒に依田学海はいました。学海自身、川越の山下幽谷の求めに応じて暁斎の「郡盲評品図」に詩を添えました。しかし、画がなくては画賛が成立しないように、いかに高邁な理論に基づく政策であっても、肝心の力量あるアーチストの存在なくしては実行不可能といえます。そのことを魯文は自ら画鬼となることのできる盟友・暁斎をもって引幕に描かせたと考えられます。
展覧会のための地元の銘酒・長命泉の特別仕様ラベル「酒仲画鬼」もおいしくいただきました。
